[LIFE]欧米の21世紀教育と同じ理論だった吉田松陰の教え方とは?
この連載では子供たちが21世紀を生きるために必要な資質とスキルを身につけられるようSTEM教育、サイエンス教育、探究型学習、起業家教育、PBL(※1)など最先端の様々な教育法について書いてきました。でも、日本にはこれら現代の欧米の教育法に匹敵するような、とても進んだ教育を160年以上も前に行った教育者がいたことをご存知でしょうか? それは私がもっとも尊敬している偉人、吉田松陰(※2)です。そして、その学校となったのが松下村塾(※3)なのです。吉田松陰に師事した人たちには、伊藤博文、高杉晋作、木戸孝允、山県有朋など幕末、明治維新時に活躍した志士が沢山います。でも、実際に松陰が門下生に教えたのは、たったの2年間だけ。しかも門下生の人数は合計で100人に満たなかったんです。しかし、そこで行われていた授業は、私たちが目標としている〝イノベーター教育〟そのものです。
そこで今回は、なぜ、その時代にそのような革新的な素晴らしい教育論をあみ出したのか? そして私たちの目指す教育とどこが似ているのか?を考えていきたいと思います。まずこのような教育が生まれる背景として、日本が時代の急激な変化に直面していたということが考えられます。浦賀にペリーが来航して以来、外国からの脅威が大きくなり、それまで盤石だった幕府の威信が崩れ、価値観が大きく変わっていった江戸時代末期。現在のグローバライゼーションが進み、科学技術やデジタルシフトが驚異的な勢いで進歩している世界的状況と似ているかもしれません。アメリカの船に乗り込み密航まで企てた松蔭は、時代の激変を実感し人材を育成し日本を変えよう!という強い志を持ったに違いありません。松下村塾は私塾(※4)でしたが、私塾は武士のみが通う官製の藩校(※5)とは違い、農民や下級武士、商人も通う多種多様性に富んだ学校でした。藩校が古い書物の素読と習字に力を入れていたのに対し、村塾では少人数のグループに分かれ歴史や外国についての最新の情報、世界地理等について討論や意見交換が行われていました。これは160年以上経った現代、ローラスインターナショナルの生徒たちが行っているブレインストーミングやディスカッション、アイデアのシェアと似ています。学友と意見を交換することで、思考が深まり、見識が広がりもっと学ぼうとと自律的になるのです。
また特筆すべきは吉田松陰の門下生に対する態度です。松蔭は「教えを請う門下生に、私は教えられませんが一緒に学んでいきましょう」と門下生に言っていたそうです。今でこそ、教師はファシリテーター(中立的な立場)であるべきという概念がありますが、上下関係の厳しい当時を思えば、本当に革新的だったのではないでしょうか。また「これは〇〇〇である。」と決めつけて教えるのではなく、門弟たちに「あなたはどう思うのか?」と絶えず質問して、門下生に常に考えさせることを繰り返していたそうです。このように繰り返し質問をすることで、自分の頭で考えることができるようになります。また松蔭は情報をそのまま鵜呑みにすることのないように指導していました。それは今の時代、クリティカル・シンキングと呼ばれる議論の前提条件が「本当に正しいのか?」と疑問を持って深く考え、課題を解決していく…そんな能力の育成にもつながっています。松蔭の教え方1つ1つが私たちの目指している21世紀の学びと通じるものがあることに、その偉大さをしみじみと感じずにはいられません。松蔭は自分の志を全うするため、29歳の若さでこの世を去ってしまいます。 松下村塾で松蔭が教えたのが2年ほどであったにも関わらず、松蔭の死後、門下生が新しい時代に向けて、偉業を成し遂げ続けたのも、自分自身の頭で考え実行していくことができるように鍛え、志を育んだ濃密な時間であったからではないでしょうか?
PBL(※1)
Project Based Learningの略。プロジェクトを通して、生徒たちが課題解決のために探求心を持って学び、時代に合った知識や未来に役立つスキルを身に着けていくこと。
吉田松陰(※2)
日本の長州藩の武士で教育者。松下村塾で指導し、多くの若者に思想的影響を与えた。
松下村塾(※3)
江戸時代末期に長州萩城下(山口県萩市)に存在した私塾。吉田松陰が指導し、幕末から明治にかけての卓越した人材を輩出した。
藩校(※4)
江戸時代諸藩が藩士の師弟を教育するために設立した学校。
私塾(※5)
江戸時代主に儒学者、国学者、洋学者が設立した重要な教育機関。
日置麻実さん
ローラスインターナショナルスクールオブサイエンス 学園長
東京、神奈川に8校のSTEMインターナショナルスクール、英語スクールを運営。日本に未来のイノベーターをたくさん輩出することを使命とする。上智大学外国語学部英語学科卒。